都留文科大学PDF 矢内原忠雄 第六章 留学

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昨日読んだPDFが面白かったので、都留文科大学矢内原忠雄で検索して、

このページを見つけた。

昨日のは、第一章で、これは第六章。

抜けている章が、そのうち、出てくればよいのだが。

この第六章では、矢内原のヨーロッパ留学が主。

1921年出発

矢内原は、キリスト教徒であっても、無教会主義なので、

キリスト教圏のヨーロッパでは、大変、得をしたように見える。

イギリス、ドイツ、フランスで、ドイツにいる間、イスラエルに行く。

印象的なのは、スコットランドインバネスの小さな教会。

矢内原は、なんせ、無教会主義のせいか、

日曜ごとに どこの教会でも入っていく。

この小さな教会では、聖書の話しが行われ、会員達が無伴奏で歌う。

壁には、紙が4枚貼ってあるだけで、何の装飾もない。

彼は、その素朴さと、充実した内容に感動して、

夕食抜きで、夜8時からの集まりにも出かける。

そして、翌朝、昨日の説教者がエプロンをして働いているのに出くわす。

説教者は、全くの平信徒だったのだ。

矢内原が感動するのは、この素朴さが、故郷の今治の集まりと

共通だったせいだ。

漱石と違い、旅行家で、アイルランドにも出かける矢内原は、

アイルランドのダブリンと、北アイルランドベルファストの違いに驚く。

植民地、ダブリンでは、裸足の子供が新聞を売っているのに、

ベルファストは、イギリス本土と同じ豊かさ。

彼は 何と シンフェイン党に同情するくらいに同情する。

植民地政策は、矢内原の専攻なのだ。

マンチェスターは、大阪より小さいと書く。

矢内原は、主に大英図書館(博物館)で読書したが、ロンドン大学で少し学んだ。

彼は、女性教授が講義しているのに驚く。

ドイツでは、若い独身女性、ハンナと親密になり、

妻がいなければ結婚していたかもと書く。

しかし、彼は、妻を思ってか、手紙と日記を破棄している。

漱石の留学時の妻と同じく、幼児2人を抱えていた妻は、

実家の家族の看病にも追われていた。

しかも、実家の弟と姉が留学中に病気で死んだ。

親友の妻も死ぬ。

この章では、留学を半年延長した事は書かれているが、

予定を早めて、帰国した事は書かれていない。

妻は、帰国後、すぐに死んでしまう。

留学出発時、0歳だった次男、光雄は、

ウィキにも書かれていないのだが、夭折したのだろうか?

やはり、長男、伊作氏の本を読みたいので、

県立図書館にあるのを、今日、取り寄せ申込みをした。

イスラエル旅行では、エルサレムイスラム教の管理のもとにあって、

カトリックギリシャ正教など、4つに分割されているのに呆れ、

知らずに入り込んで、銃で脅された。

1922年ではあるが、すでに、ヨーロッパ各地からユダヤ人が

入植しており、農業的にも成功したいた。

矢内原は、途中のエジプトやイタリアでも精力的に歩く。

出発時の途上の上海でも、逗留が何日もあったので、

蘇州などにも足をのばした。

ジュネーブの新渡戸の所にも寄った。

それにしても、高校や大学の知り合いがあちこちにいる。